『青のフラッグ』第48話

 

ほぼまるまるトーマくん視点の

心情描写回。作画がすばらしい。

 

とはいえ、以前から気になっていた部分が

さらにふくらんでしまったので

あまり浸れない自分もいるのが正直な感想です。

 

この美しい心情描写のマンガ作品を見て

ただ「好き」になっただけなのに

恋愛対象が同性だからって理解されないのは

おかしい!!と熱くはなれないんだよなー。

でもその段階はとっくに過ぎちゃったからなー。

 

最新話はこちらから。

以下、ネタバレです。

 

 

 

最初から脱線。

 

明希子さんとお兄さんの経緯は

そういうことだったのか!と

なんとなくすっきりしました。

 

お兄さんの過去回想を見ていると

家庭教師時代の明希子さんと

らぶらぶ()な過去は思い浮かばなかったので。

 

完全番外編枠になってしまうとは思いますが

この二人の過去編はまとまったページで

読んでみたいと思うのです。

 

異性愛者同士の、一つの家族になるまでの形としては

なかなか面白いサンプルになると思いますので。

 

☆☆☆

 

ずっと前から気になっていて

今回の描写でやっと形になったのは

トーマくんの恋情の扱いについて、ですね。

 

彼にとって太一くんは

恋愛対象ではある、が。

性愛対象、もっとつっこむと

性欲対象、かどうかがわからない。

 

というのが今までの印象だったのでありますが

この回を見ると「特別な人」なのは間違いないけれど

「信仰」に近い感情なのではないかとも思ったのです。

 

でも二葉ちゃんを巻き込んでまで

自分といる時に「笑ってほしい」

「近くにいたい」という感情もあるんだよね。

だから相手を「好き」なだけでは満たされない。

 

とはいえ友人よりも、もっと近くに近づきたい

=「恋愛」として回収してしまうのは

危険だなと、わりと子どもの頃から思ってはいるのです。

 

あと現状、恋愛=性愛=性欲の3つは

セットとして扱われがちですよね。

それは本当に一体なのか?とも疑問です。

 

人間の異性ではない存在を対象とする

セクシャルマイノリティーの人々への

負の感情の起点には、この要素が大きいと思っています。

 

この物語においても、ケンスケくんが

同性愛者に嫌悪を示す理由は

自分が性的対象とされること、なのは間違いなく。

 

でも自分が想定していない相手から

勝手に性欲対象にされている

まして同意なしに実行されるのは

そもそも誰でも嫌ではないのか?

 

好きなだけ、好意を持たれるだけなのであれば

よほど嫌っている相手でない限りは

その気持ち自体を嫌がる人はいないと思うのです。

例外は色々ありますけれど。

 

実際には「恋愛対象」にされていると認識した時

「性愛対象」「性欲対象」というのが

セットになるでしょう。

 

というか仮に両想い or 付き合いOKの二者だとすれば

ますますそこを無視するわけにはいかないでしょう。

(よみがえる自分の黒歴史……)

 

トーマくんが太一くんを好きな気持ちは

ただ好きになっただけだから

純粋なものだから、きれいなものだから(形容詞は何でもいい)

否定されてはいけない、という方向性は安易ですし

現在進行形の「新作」で見たい着地ではない。

(それなら大昔のマンガ読むのよなー)

 

学校に行ってからの皆さんの関係性で

そのあたりも色々と掘り下げていくのかな……

と、あれこれ考えながら見守っていこうと思います。

 

以下、自分語りなのでしばし空けます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☆☆☆

 

 

私は人間が恋愛対象でも性愛対象でもない上に

自身を性対象とする人間への性嫌悪が強めだったり

最愛の恋愛対象として、特定の怪獣王を認識しているという

トーマくんとは別エリアのセクシャルマイノリティーですが。

 

対象が何であれ性愛、性欲を向けることがないので

「それは本当に恋愛なのか?」という問いは

まーほうぼうから突き付けられます。

性愛、性欲の問題は根深いのです。

 

とはいえ人間はみんな違うので

誰かの恋情が他の誰かの恋情と

完全一致することはないのではなかろうか?

と、世の中を不思議にも思ったりしておりますが。

 

重なる部分が多いほうが

理解しやすいのも納得はするのです。

全員違う存在として位置づけるのも

それはそれで面倒なのです。

 

ただ、私のあの焦がれて満たされて

幸せになった気持ちが

他の感情と同列のものなのだと

取るに足らないつまらないものなのだと

みなされる世の中なのであれば。

 

私はそんな世の中に受け入れてもらうために

がんばる必要はちっともないし

世の中を受け入れるためにがんばる必要もないのだと。

 

パートナーを必要としない人間で

よかったなとこの時ばかりは思ってしまうのです。

独りで大丈夫な位置はとても生きやすい。