ある人の神

 

ツイッターでもやもや書きちらしていたのを整理。

書き言葉だとまとまらなかったので

結局散文仕立てにしてしまいましたとさ。

 

自分はこういう提示の仕方のほうが合ってるね、やっぱり。

ひとまずの終着点。旅路は終わらないけれど。

 

そしてカテゴリーをどこにすればいいのか

ものすごく迷いましたので

あまり人目につかなさそうな「日常」としました。

 

※19.07.05に加筆・修正※

 

 

 

かつて人は森に生きていた

動物と同じように生きていた

人と動物の境はあいまいであった

命は自然の恵みであった

天、地、海、あらゆるものが神であった

人は神を見いだし自然に感謝した

ある日、人が森を捨て平原に出たとき

土地を耕し始めたとき

動物を飼い慣らすようになったとき

町を作り、商売を始めたとき

武器を鋳造し、戦を始めたとき

そこに文化は花開いた

森は二度と還れない場所となった

そこは畏れ敬う土地となった

神は畏れ敬うものとなった

自然は人のためによきことをしなくなった

神は人のためによきことをしなくなった

神に近い生き物たちは化け物となった

人は新たに神を創った

自分たちを守る神を創った

その数は空の星々のごとく多かった

新たな神に守られた人は自然の神を殺した

その神を殺し、新たな神を祀った

そうしなければいずれ呪われるからだ

・・・

人は自然の「良さ」を忘れてしまったのではなく

自然に対する「畏怖」を忘れてしまった

それが私の感覚

あれは畏れ敬うもの

今となっては特別な人しか行けないもの

そのままの自分では生きていけないもの

このため自然の中で生きている生き物

特殊な人たちは特別視される

時に尊敬され、時に畏れられる

里山なども改良した自然であり

人が生きていける場所

文明に含まれる、そう思う

☆☆☆

人はいつの世も神と共にあった

神は違えど、神のいない世はなかった

なぜ人は神を求め、信じるのか

いつの世もどの土地においても

問われ続けている問いがある

気が狂うかのごとく

人はどこから来たのか

何のために生きるのか

そしてどこへ行くのか

その答えを求め人はさまよう

神なる存在を求め続ける

信じるものほど悩み続ける

ある者にとって

神とは光であった

ある者にとって

神とは言葉であった

ある者にとって

神とは数字であった

ある者にとって

神とは絵であった

ある者にとって

神とは体であった

ある者にとって

神とは音楽であった

神とはあってないもの

神は万物の中にある

あなたの神はあなただけのもの

私の神は私だけのもの

あなたの神は私の神にあらず

私の神はあなたの神にあらず

なぜ人と同じ神を求めよう

なぜ人と同じ道を求めよう

人は永久に孤独である

決して相容れることはない

歩みよることはできても

決して同化することはできない

おそらく始まりは

一人の人が見たその神を

誰かに伝えようと思ってのこと

苦しむ者に救いを

悩める者に救いを

ただ他者の言葉を飲み込むのではなく

思い悩み、考え抜いて

そうして得た答えはかけがえのないもの

絶対ではないが、輝きは一生に一度

それを知らぬ者、忘れた者

彼らの神はもはや神にあらず

・・・

科学は宗教のようなものである

この言葉に反発する人は多いだろう

ただこのとき

宗教が万物の神をさすのであれば

私は科学は宗教と変わらぬと思う

神を求めるのは生きていくこと

世界を生きる者は、世界を考える者は

最後に神にたどりつく

現代ではそれを神と呼ばないかもしれないが

少しずつ、形を変え、土地を変え

幾千と受け継がれた宗教と

新たに生まれた宗教に差はない

おそらく明暗をわけるのは

神ではなく、教えではなく

信じる者たちの心

永久の孤独に脚すくむ者

人と違うことに怯える者

ある属性を許せぬ者

粛正の凶器を望む者

それは宗教の罪科ではなく

人の罪科であろう

 

☆☆☆

 

宗教への無知は危ういと、私は思う。

特定宗教の教えを知れ、というのではない。

なぜ世界中に神がいるのか、

なぜあらゆる媒体で神を描いたのか、

なぜ神を求めるのか、なぜ教えを求めるのか、

なぜ集団になるのか、なぜ争いが起きるのか、

そして自分にとってだけ都合のよい神は、

他者に提示されることはないと、

公の場で思いをはせる機会はない。

触れてはならぬもののように。

なぜだまされるのか?

知らないからだろう。

考えたことがないからだろう。

けれどだまされたとき、

最も惨事を起こすのは宗教であることは確か。

数千年前から、宗教によって積み重ねられた、

そのされこうべの数は宇宙の星の数ほど。

ただし、それは宗教のせいではない。

同じであることに安心する人がいる。

孤独を認められない人がいる。

その受け皿も必要だろう。

けれどそれをするのは神ではない、と私は思う。