『エクソシストを堕とせない』第76話

 

この相手とこの場で問答する価値なしと

ぶったぎったイムリさんが正しい(リンクはこちら)。

相手が神父くんで、今この瞬間陥っている思考なら

まあ向き合う価値はあるんですけど。

 

物語の根幹設定を否定するものなので

無理な話ではあるんですが、

怠惰の魔王が用意した《夢の世界》は

地球は人と神と悪魔(とその関係者)

だけのものではない、という視点が

決定的に欠けているので

私にとっても、お話にならんのだった!

 

あと、主人公の敵思想としての

「反出生主義」を扱った作品では

雷句誠『どうぶつの国』の出来が

大変すばらしかったので

そちらの内容にも触れておりますが

完全にネタバレなのであぶりだししてます。

 

以下、感想です。

 

 

 

辛い環境にいる「個人」が

夢の中でだけは幸福を得ることが

できる状況で、世界滅亡を

願うこと自体はわからなくもない。

 

しかし怠惰の魔王による

世界の認識は歪んだままであり

被害者と被害者を「勝手に」連帯させるのは

悪しき行為でしかないんですわ~!

これが誘導でなくてなんなんだ!!

 

この当時の神父くんは虐待環境下にあり

世界に存在するのは人間だけではないと

目を向けるゆとりは全くないし、

(悪魔も神も地球生命体を否定しやがる!!という

作品の根幹設定があるので無理なお話なんですが)

その願いは《ひとりよがりで怠惰である》と

双方認識しないまま突き進んでるんだよね~。

 

そして怠惰の魔王のとどめの台詞が以下なので

怠惰「命を生み出す女はもう 邪魔をしないで」

イムリ「寝言は寝て言え!」

と対話をぶちきるのが正しい。

 

ぶっちゃけド素人が「対話」できるのは!

寄り添いたいと思える相手とだけなんだ!!

イムリさんは強欲との言論バトルも「話が長い!」と

打ち切る派ですもんね~。私もわけわかんねー話を

する奴の話は聞かない派、のほうが好きですし。

 

怠惰に対してイムリさんが「正解」をぶつけることは

元々要求していなかったし、する必要もないと

思っているんですよね。神父くんに何を言うのかは

気になっておりますけれど、乗りたい甘言だといいのう←

 

☆☆☆

 

『どうぶつの国』は前作で作家が見せた

《生まれたままの姿で、異なる存在同士が

互いに補い合う、差別のない良き魔界を

やさしい王となって作り上げる》という

ド直球の思想をさらに強化した作品で

全部読めばわかるから!!で

終わらせてもよいのですけれど←

 

反出生主義を極めた、残忍なラスボスに対し

主人公たちが最終回で出す回答が見事なんですよ。

 

・己が、家族が、生かしたいと願う命が、今ここにある

・すべて善になれとも、悪がなくなるとも主張していない

・時間はかかっても、対話を重ねよりよい世界に向かうことはできる

・これは多くの感情に、叫びに、耳を傾けてたどりついた答である

・お前はそれよりも、たくさんの声に耳を傾けたのか?

・耳を傾けなかった者が、すべての命の運命を決めるな

 

どんな生き物も受け入れる星をひっくるめ

大地に生きているあらゆる種族の

生命の強さを信じ、人間の善性を信じ、

希望の物語を完遂する作家の紡ぎだした言葉を

あえて拒否する理由がないんですわ~!!

 

まあラスボスさんの生育過程は

閉鎖された環境で少人数に思想を叩きこまれるという

状態ではあったので、多少気の毒ではあるが

自分で選択可能となってから

積み重ねた答え・たどりついた結論を

「みんな」が選ぶに値しない、というお話なのですよ。

 

☆☆☆

 

というか私も初手・反出生主義思考を

備えているほうの人間ですが(今ある命に加え

わざわざ新しい命を生み出す価値がわからない、のほう)。

 

そんな個人でも成人年齢をはるかにすぎ、

人間社会(というか成人女性への偏見?)で

「認められる」あれこれに、ほぼ関わっていないとしても。

 

自ら望んで生まれなかったことは否定しないし

来世があるなら絶対他種族がいいと思っているが

たまたまだろうと、ホモサピエンス社会に所属している

構成員として最低限守るべきラインはあると思ってまして。

 

少なくともすでに子どもを生み出した側が

反出生主義を唱えるべきではない、という

とてつもない私怨を怠惰の魔王に

向けてるんだな~というのは明らかにしてしまおう。

 

彼の立場で《うまれなければよかった》の道を行くの

《うまなければよかった》と何が違うんですか?

前者の願いを口にしていいのはルカくんだけだ。

 

私は自殺願望を否定しないし、自殺するほど

思いつめられているような個人こそ

他者と共有することで強化される何かしらの教えを

必要としているのに、大手宗教がそこそこ

自殺を否定する(=救済世界への門を閉ざす)のは

意味わからん派ですが。

(己を救済できるのは己だけ、はうなずくが)

(じゃあなんで「誰か」と同じを広めようとするんだ、とナゾ)

 

自らが渇望するのと同程度に

性質が異なるものを渇望する「他者」がいることに

思考が及ばないのはどうかしてるぜ~と思いますよ。

だから悪魔だし魔王だし、乗ってはいけない甘言なのだが。